修行記|尾行の洗礼‐電車編(下)

尾行の洗礼‐電車編(下)

2人の先輩とともに朝の尾行調査に出た新人探偵久米。
勤務先へと向かう地下鉄の駅で、対象者はどうやら女性専用車両に乗車する様子。
同じ車両に乗り込めるのはS先輩だけだが、H先 輩から「Sに頼るなよ。自分で捕捉し続けろ」
と言われて、さぁ困った…。

こっちの策が固まるまで待ってくれるはずもなく、電車はホームに到着した。
何の名案も思い浮かばず、私はH先輩とともに隣車両のドアを入る。
すでに乗車率250%超と思われる状況下では、案の定、隣にあるはずの女性専用車両は全く見えず。

電車が発車したところで、H先輩に策を乞うことにした。
なんとか自分でひねり出したかったが、失尾してしまっては本末転倒なので仕方なく…。

「一回一回降りればいいじゃん」

!!
あー、頭がカタイっていうのはこういうことなんだな…。
あまりにもシンプルな先輩の回答に、さらに悔しさが募る。
冷静に考えれば、至って普通の方法が正解だった。
駅に停まるごとにドア口まで降りてみて、対象者が降りるか目視すればそれでいいのだ。

「ですよねぇ…」と苦笑いを返しているうちに1つ目の駅に停車する。
奥にいる人が降りるのでドア付近にいる自分も一度降りる、という雰囲気を出しつつ一回ドアの外へ出る。実際そこそこの人数が続いて降りてきたため、不自然な感じはしなかっただろう。降りていく人たちの合間から、隣車両のドアに目を凝らす。

対象者の服装・持ち物としては、サーモンピンクのバッグが目立って分かりやすかったのだが、この状況ではそれに頼ることはできず、且つ顔が直接見えない場合、頼れるものがあるとすれば髪型だった。対象者は、頭のかなり上方までアップした髪を、薄紫色のゴムか何かで結んでいたはずだ。幸い、彼女は背も高い。

――降りなかった。…と思う。S先輩も降りた様子はなかったので、きっと大丈夫だろう。
同じくドアの外に出てきていたH先輩に顔を向けると、「降りてない」と小声で返ってきた。

ホッ…。とりあえず初回はクリアできた。

再び乗り込もうとするところでH先輩が言った。
「Sは探すなよ。対象者だけを探せ。Sが対象者を見逃してたらこっちも一緒に失尾するぞ」

――なるほど…。まるで自分のやり方を見透かされたような忠告に脱帽。

「わ、わかりました。対象者に集中します!」

ドアが閉まり、また走り出す。
改めて隣の車両に目を向けるが、相変わらず連結部からも脇の窓からも様子はうかがえず。
次も出てみるしかないな。ちょうどドアに張りつくような格好になってるし、まぁちょうどいい。
やがて電車が減速を始め、次の駅のホームが見え……ホームが………あれ?!


逆かっ!

うーん、しまった。これはキツイ…。
この駅では逆側のドアが開くようだ。そこまでは考えてなかった。
別の意味でも視野が狭かったことに反省。体の向きを変えて逆側のドアを見ると、集団と言ってもいいスーツの男性たちがブロックするかのように立ちはだかり、ドアまでの道のりが異様に遠く感じられた。

しょうがない。

「すみません、降りまぁす」と繰り返しながら、人をかき分けかき分け――

と、ドアが開くなり周りの人間が一斉に動き出す。
そのまま流されるようにドアの外まで押し出された。
ここは乗り換えに使われる主要駅だったのだ。それだけに、出てからがまた大変。
隣の女性専用車両からも同じようにたくさんの人が降り、これまたキツイ……。

いるか?いるか?!

目の体操でもしているかのように色んな方向に視線を泳がせていると、視界の端に サーモンピンクの色を捉えた!いた!確か に対象者だ。
頭のゴムではなくバッグの方が見えたのはラッキーだった。が、彼女は自分と同じようにドアから出ると振り返ってまた列に並んだ。ここで降りるわけではないのだ。ふぅ~っ……。

思わず深いため息が出る。再度乗り込むと、車内はだいぶ空いた状態になっていた。
が、運悪く連結部の窓の前には人が複数立っていて、隣車両の見え具合は以前と変わらず。まぁいいや。次の駅では降りる人もちょっとだけだから捕捉しやすいだろう。ほどなくして再度ブレーキがかかる。さっきと同じ側のドアが開き、またまた一度降りる。あとに続く人は少なくなっていたが、そこらへんはもう気にしなくてもいいかと思っていると、もっと気にかかることがあった。

H先輩が降りてこないのだ。対象者が降りてこないことを確認してから、閉まるギリギリで再度乗り込むと、H先輩は連結部脇の座席に悠々と座っていた。なぜ外に出なかったのだろう?私が出るから平気かと考えたのだろうか?

いや、うちにはそんないい加減な探偵はいない。特にH先輩は社内で最も失尾率が低い人であり、対象者の捕捉を新人 に任せることなどあり得ない。先輩の前に立つ形で吊革を握りつつ隣車両を見ると、今度は、遠目に対象者の姿を確 認できた。

やはり対象者は降りてはいなかったが、H先輩はどうやって捕捉し続けていたのだろう。
腑に落ちん…という私の表情を見てとったのか、先輩はニヤッとする。
そのことからも、やはり先輩が対象者を捉えていたことは間違いない。
私が考え込むように顔をしかめると、H先輩が「座りなよ」と一言。
「いえ、自分は立って見てますよ」と返そうとしたが、肩を押されて半ば強制的に座らされた。
と、そこでまた小声で「窓」と言われた私は、一拍考えて先輩の意図を悟った。


丸見えだった。

座ったところから連結部脇の窓を見ると、隣車両の対面側の窓に、座って携帯をいじっている対象者が写っていた。うーん、なるほど……。だから降りなくてもH先輩には見えていたわけか。

その臨機応変な対応に、悔しいと思う私。
他に確実な手段があれば、「一回一回降りる」必要などないのだ。
結局このあと、対象者はさらに4つ先の駅で降り、私自身もずっと捕捉し続けることができて最終的に対象者の勤務先判明に成功した。

2時間程度ではあったが、電車が登場する尾行について多くを学べた一件だった。
そして後日、別の対象者の尾行調査に参加した私は、上記のようなケースは全く易しい部類に入るのだと知らされることになる――

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